古蔵台

さーるー

2006年06月06日 06:00

今日は那覇市の「古蔵台」を紹介します。

たぶん、タクシーに乗って古蔵台までお願いします!」と言っても

はぁ~?」(‥?

って言われると思います。

実際の地名として古蔵台なんてありませんから!

なら、何処よ
 
 
古蔵台は、マンションやアパート等の名称で使用される事はあるみたいですが...
ちょっと使ってみたくてタイトルにしました。f^^;)

ウチナ~ンチュ、特に年配の方には「与儀タンク跡地」の方が馴染み深いと思います。
与儀タンク跡地」とは、沖縄返還前に那覇港湾施設から嘉手納飛行場までの航空燃料移送の中継地及び石油オイル貯蔵所用地の跡地の事で、現在では「古蔵小学校」を起点に「与儀」「国場」「寄宮」につながる住宅街の事を言います。


この辺は、今では閑静な住宅街に姿を変えましたが、昔(オレの少年時代)はこんな感じでした~...


約30年前、古蔵小学校が開校し、オレを含め1,300人余りの児童が与儀小学校から古蔵小学校へと分離しました。
それを機に、その周辺地域の開拓が本格的にスタート、一年中ブルドーザーの音が鳴り響いていました。
※山を隔てた国場側に住む児童は、山中(通称ボイン山)の通学路(開校後に父兄の手により木々を切り開いた獣道の様な小道)から小学校へと通っておりました。
その通学路を使用したのは1、2年と短い期間であったと思います、その当為は通学中に何度もハブやマングースと遭遇し、石を投げた事を記憶してます。(・・;)
※危険ですからマネしないで下さい。

それから数年後、与儀タンク跡地周辺の丘陵が切り崩され、畑や古い民家も徐々に姿を消していきました。
※崩される途中の丘陵は子供達の格好の遊び場!(今のBOOKBOX与儀店付近だと思います)
切り崩した斜面の雑草を薙ぎ倒し巨大な滑り台(子供達自身の自作)を構築し、ダンボールのソリで雑草の滑り台で遊んだ思い出は生涯忘れないと思います。(T^T)
又、戦争の爪後が残る時代とは思いませんが、ライフル弾や薬莢がゴロゴロ転がっており、大きい物では30センチ位(戦車級)の弾丸までありました。
(今、考えると恐ろしい物をオモチャにしておった)
※危険ですからマネしないで下さい。

更に数年後、開拓が進み今の地形とほぼ同じ区画に整理され、徐々に道路も舗装されました。
※この頃になると未開拓地に住み着いた野良犬が十数匹、群れをなしてゴミ置き場をあさっておりました。
夜に遭遇すると恐ろしかったのですが、人間を襲う事は無かったと思います、元々人間に飼われていたのでしょうね~。
(ある時期を境に一匹もいなくなってしまった、イズコヘ・・・!?)



開拓時期と重なった為か、昔遊んだ場所や通学路等は殆ど面影を残しておりませんが、
オレにとって思い出深い地の一つです。

皆さんも思い出の地はありますか?
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